口笛

 

 子供の頃、口笛なんぞ吹くものではないと言われていた。「変なものが寄って来る」というのは嘘だろうとは思ったが、下品だと言われるとちょっと納得していた。だから、大人になるまでは口笛を吹いたことも、吹こうとしたこともなかったのである。初めて口笛を吹いたのは早慶戦の応援でのことだった。早稲田大学の応援歌『光る青雲』は、一番は歌だが、二番は口笛の演奏ということになっている。そこでいきなり口笛を吹いたのだが、初めてなのに普通に吹けたので、口笛なんぞは誰でも吹けるものだと思っていた。

 

 ところが二年ほど前に、やはり早慶戦で『光る青雲』の合唱になった時のことである。二番に入ったら、周囲の雰囲気がおかしいのだ。まわりのおじさん達(同級生だち)の音量が絶対的に足りないのである。自分でも口がまわらないのがわかった。切れがない。音程が取れない。自由に音の高低があやつれないばかりか、音量が出なくなっているのだ。ほっぺたが苦しい。ためしに、

 

「ねえ、口笛、下手になってない? 吹きにくくない?」

 

 と、訊いてみると、まわりのおじさん達(同級生たち)も同意したのであった。

 

 そういえば近頃、ペットボトルの水をよだれのように唇の端からこぼす。最初の内は「あらら。」「おっと。」くらいに感じていたのだが、回数が重なると、これはホントにまずいのではないかと思うようになった。ペットボトルの水だから、まだいいようなものの、もしもこれが酒だったら? 盃を口元に運びながらクイッとやった瞬間、唇の横から酒がたら~っとこぼれたとしたら? 考えただけでもぞっとする。私はついに酒も飲めない身体になってしまったのか…。さらに細かく自分を観察してみると、液体が唇から垂れる曜日がほぼ決まっていることに気付いた。だいたい、月曜から水曜日に限られているのである。そこで、私にははっきりと原因がわかった。間違いなく口角の衰えなのであった。

 

 私は毎週、木曜日の午後にお歌のレッスンを受けている。もう何十年にもなるのだが、お顔だけが可愛い、鬼のような先生に、まずやらされるのが発声練習である。音階を「ぱぴぷぺぽ」で上がって行って、「まみむめも」で下りてきたり、「まみむめも」で上がって、「らりるれろ」で下りてきたりするのを何セットかやらされる。それを2オクターブも上下すると、口の廻りがくたくたになって、口角が筋肉痛を起こす。(うそだと思うならやってみな。)だが、その訓練の甲斐あって、木曜日の夜から日曜日いっぱいくらいは、ペットボトルの水は唇からはみ出して横に流れることはないのである。今後は誰かと飲みに行く時には、まず、この方法で2オクターブくらい発声練習をしてから出掛けなければ、と、馬鹿なことまで思った。(そこまでして飲みたくないぞ。)

 

 先日、ミイがテレビのリモコンを踏んで、ついた番組が『マツコの知らない世界』だった。そこに口笛の名人というのが出ていて、世界大会なども映り、その見事な技に思わずうっとりと見つめてしまった。番組では名人が、口笛が全く吹けないというマツコに吹き方を伝授していた。数年前、ボニー・ジャックスの西脇さんが、持ち歌の中に口笛の演奏があるのだが、若い頃の妙技がもうお聞かせできないと嘆いていたのを思い出して、これはいい番組に出くわしたものだと嬉しくなった。名人が三つのポイントを丁寧に教えているうちに、吹けないと言い張っていたマツコの口笛が聞こえて来たのである。ほほお。そうですか。この程度の口笛の練習なら毎日少しずつできるはずだ。まずは『光る青雲』である。次の早慶戦では、あの熟年と初老の輪の中で独唱に聞こえるくらいのものを響かせてやろう。私はテレビの名人のアドバイスを聞きながら、ここを先途と真似してみた。

 

 だが、次の瞬間、思いもかけぬことが起きたのである。ミイが呻り始めたと思ったら、ものすごく怒って、ダッシュで駆け寄って来て、私の手首に噛みついたのである。甘噛みとは言えない、経験したことのない強さだった。初めはただの偶然かと思っていたのだが、両方の耳を下に伏せて目を光らせ、歯をむき出しにしている。蒲団の中に手を隠しても追跡を止めず、もぐり込んで来て執拗に手首に噛みつくのであった。その後何度か試してみたのだが、何度やっても、どこにいても(別の部屋で口笛を吹いても)、駆け寄ってきてジャンプし、フガフガいいながら手首に噛みつくのだ。

 

「変なものが寄って来る」の「変なもの」というのは、ミイのことだったのか。上等である。

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コメント: 2
  • #1

    かぼ (水曜日, 18 4月 2018 10:08)

    人生相談をYoutubeで聞かせて頂いております。相談者の質問にズバリ!気持ちの良い、しかも想像もつかない回答が出てきます。
    三石先生は、いったいどのようなお生い立ちと経験・教養を身につけられたのでしょうか。毎回、素晴らしい回答、そして爽快な気分を味わわせて頂いております。これからも宜しくお願いいたします。長野県人として、とてもうれしく思います。

  • #2

    まいまい (日曜日, 16 6月 2019 23:57)

    三石先生、好き、声も好き、回答も好き、考え方、人としてのあり方、教え方、怒り方、本当好き、元気でる。頑張ろうって思える。
    勇気もらえる。自分を恥じる。
    いつもありがとうございます