読書について

 

 スコセッシュ監督による『沈黙・サイレンス』で、トモギ村の隠れ切支丹としての重要な役目を、オーディションで勝ち取ったという塚本晋也。

 

 その彼が一昨年、大岡昇平の『野火』を映画化した。監督ばかりでなく、脚本も主演も彼である。

 

 楽しみにしていたのだが、大きな映画館では上映されなかったので、気を付けていたのに見そびれてしまった。

 

 それが何故か、今年、八月十五日の一日だけ、渋谷のユーロスペースで二回上映するという情報を得た。

 

 今度は必ず見ようとぎりぎりまで日程を空けていたのだが、どうしても十五日にしか来られないという生徒がいて、断るわけにもいかずに涙を飲んだ。

 

 

 以前、市川崑による『野火』は見たことがあって、見比べてみたかったのだが致し方ない。生徒の方が大事だもんね。いや、ホント。

 

 だが、これが三石がダビデ(=神の御贔屓)と呼ばれる(…って自分で呼んでいるだけなのだが)所以で、十三日の日曜日の夜にミイがTVのリモコンを踏んだら、いきなり塚本晋也の『野火』が始まるところだったのである。どうよ? わはははは。

 

 もとい。読書の話である。

 『野火』を初めて読んだのは高校一年生の夏だった。生への凄まじい執着の中で神を求める魂の流浪の果ては、「この世は神の怒りの跡にすぎない」と結論する。食料も無いフィリピン戦線で、追い込まれて狂人となって行く主人公・田村は、大岡昇平その人であり、その自他の決定的な溝、魂の永遠の孤独は、高校生ごときが見てはならぬものであった。しかし、それにもまして何よりも印象に残ったのは、大岡の流麗な文体である。崇高な魂から絞り出された美しい日本語だと思った。文章のいくつかは声に出して読んでみたりもしたのである。

 

 高校生の頃、あるいは青年前期(女に青年というのは違和感があるが、他の言葉ではしっくり来ない)の読書の凄い所は、経験がないゆえに、作者の意図が突き抜けるように理解できるところにある。書き手の核心をいきなり理解してしまうのだ。青年期に読書をしなかった者は、大事な能力を無駄にしたと思う。成人してからではそうは読めない。自分の経験が邪魔をして、おかしな経験値や先入観から作者の魂になかなか手が届かないのである。つまり、高校生の私は『野火』を完全に理解していた。戦争など知らなくとも理解した、のである。

 

 だが、今回、塚元の映画『野火』を見て、元の小説がわからなくなった。

 塚本は塚本なりに『野火』を解釈し、それを映画化したのだが、それを見た私の脳ミソはぐちゃぐちゃに煮えてしまったのである。

 

 『野火』自体がわからなくなった。映画を見る前までは小説『野火』の説明が完全にできたはずなのに、見終わったら自分の言葉が消えてしまっていた。もはや、原作の小説さえ一行も思い出さない。これは何としたことか。市川崑の白黒映画では、こんなことはなく、小説は厳然として私の頭に残っていたのに。

 

 この映画の感想は語りたくない。語ってはいけないものだと思った。日本語の美しさも全て消えた。そうして、大岡昇平を読み直そうという気力もなくなっていた。私の受けたこの衝撃は、このまま深く身体の底に沈殿して固まっていくのだろう。火葬場で焼いたら転がり出るかもしれない。

 

 八月十五日の早朝、私は靖国神社に行き、ただ頭を下げて帰った。