浮線綾螺鈿蒔絵手箱を見にサントリー美術館へ

 

 授業が終わってから、生徒達とサントリー美術館に行きました。

 

 玉手箱というのは Sacred Treasure Box で、中に入っているのは化粧道具や鏡や櫛。

 

 化粧には呪術的な意味合いがあり、 privacy の極致なので、やはり他人が開けて見ることは決して許されないという性質の物らしい。

 

 神々に奉納された玉手箱に至っては、材質ばかりでなく、使う文様も、また奉納する人物の身分や品格も厳密な設定があったという。

 

 ずらりと並んだ玉手箱を見ながら、生徒達は、

 

「ねえ、ねえ、このうちの一つをもらうならどれがいい?」

 

 …って、あんたら神様か!?

 

 浦島太郎の玉手箱の話は、腑に落ちないのだが、こんな説もあります。

 

「太郎が玉手箱を開ける理由は、他の女との結婚資金にしようとしたもので、それは乙姫の愛情に対する裏切り行為であるから、その場合を想定した乙姫が予め、呪いをかけておいたものである。」

 

 ふ~ん。

 

 有職故実を解説した邸の見取り図があって、どの場所に何を置き、姫達がどう生活していたかが細かく描かれ、並びに実物大の本物が展示されるので、他人の私生活を覗き見しているような気になってドキドキした。

 

 櫛の一つ一つを見ていると、これは確かに魔除けであったに違いないと、霊気を感じたのであった。

 

 6月21日~26日は、期間限定で、蓋を開けた状態で、蓋裏特別展示があるそうです。

 

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    星田美和 (土曜日, 04 11月 2017 07:05)

    おはようございます。引き続き、書かせていただきます。

    浦島太郎の話は、相対性理論について書かれたことだと考えています。御伽の国へ亀に乗って行くことは、つまり、時間と空間の歪みの世界に入ることと考えます。時間と空間の歪みの世界から、地球という元の世界へ戻れば、瞬時に歳をとるのは全く自然なことと考えますが、いかがでしょうか?

  • #2

    星田美和 (土曜日, 04 11月 2017 07:32)

    失礼いたしました。書き終える前に、送信ボタンを押してしまいました。

    『櫛の一つ一つを見ていると、これは確かに魔除けであったに違いないと、霊気を感じたのであった。』との、先生の文章があります。わたしも、その通りと、感じます。

    私は幼少期に、無生物にも、生物と同じような命があるのだと何故だか、不思議と感じるところがありました。育つうちに、そのように感じていたことはいつのまにか、忘れてしまっていたのですが、これまでの生き方を変え、本来の自分自身につながった生き方に戻そうと考え、そうしたところ、思い出したことです。もともとこの世に存在している全てのものは、小さく小さく見ていけば、原子に至り、陽子と中性子の周りを電子がグルグル回っているという構造で成り立っていると、記憶しています。つまり、全ての存在は、どんなものであろうとも、微妙に振動しながら存在していることになります。それでは、机や椅子は揺れているというのか?揺れているはずはなかろう、と思うのがこの世の理論としては自然だとは思いますが、人の感覚機能の許容範囲というのは至って狭いもので、可視光線などというものは、それこそ光のとても狭い領域の部分を感知しているに過ぎません。これは、見る、もしくは観る機能だけにととまらず、聴覚、嗅覚、触覚についても同様のことと思います。また、これは今挙げた知覚とは異なる性質のものですが、心が感じる感覚というものもやはり、同じことが言えると思います。涅槃寂静分の一の感覚、それくらいの感覚を認知できる機能が、本来の人間には備わっているものと考えています。しかし、生まれ育つ中で、私が自分の感覚を忘れたのと同じく、誰もが自分の本来の感覚をどこかに置き忘れて来てしまっている、ただ、忘れてはいるものの、中には、その感覚をふと思い出す時があったりするものかと思います。先生のお感じになられた、霊気もそういったものかと思いますが、いかが感じられますか?