映画『追憶の森』

 富士の樹海って本当にあんななのか…

 私は山の子なので、やっぱり山は怖い!!

 

 映画を見終わって是非原作を読みたいと思い、受付に並べられていた本を手にとったら、ノベライズされたものだった。あああ。脚本で見てみたかった。

 

 アメリカ人にも仏教徒というのは増えているし、日本人の死生観に共感する人達も、そうでなくても興味を持つ人達もいるとは知っていたが、ここまで来たか。

 アメリカ人もこういうこと(魂や霊の存在、spirit という単語を使っていた。やっぱりこの単語が一番ヘブライ語の ”息” に近いのだろう)に正面から向かうようになったのかと、ちょっと驚く。

 

 最初、アメリカ人に妻と娘の名前を聞かれて、渡辺謙が

「妻の名はキイロ。娘の名はフユ」

 と答える。おっと、さすがにアメリカ人の脚本だよ、などと思っていたのが大間違い。男は、妻の好きな色も好きな季節も知らずに死なれてしまった自分の人生を悔いての樹海入りだったのである。

 渡辺謙は、実は人間ではなくて、生と死との境に存在する樹海の霊のようなものだったのだと、映画の終わりに突然じーんと分かるのである。うまい脚本だなあと、ため息が出た。

 

 さすがにキリスト教徒の国だと思ったのは、男は死ぬ決心をして樹海に入ったのに、渡辺謙の「生きて出たい」という願いのためだけに、必死に出口を求めるという設定。他人を救いたいという一途な思いが、男に生への執着を蘇らせてゆく。

 

 そういえば津軽旅行の時、後輩が露天風呂で、「死生観と生き方とは、どう違うのか?」と言って来て、「生き方とうのは、一本の紐のように人生を捉えた場合の、初めと終わりがあるその途中の how to であり、死生観というのは紐ではなく輪状のものとして、生に続く死を想定してのことではないのか。」と、スッポンポンで答えたのだが、この映画でも同じようなことを思った。