敢えて一言、もの申す

 千葉県の高校教師が、学校内にいた(生まれた)仔猫を生き埋めにした事件について、敢えて一言述べたくて書くことにした。

 この話をテレビ・ニュースの報道で初めて聞いた時、あまり関心も持たなかったのだが、あまりにもこの教師に対する非難ばかりが集中して強調されるので、やはり首をかしげたくなったのである。

 ご存知の通り、私は愛猫家である。猫ほど好きな動物は、この世に存在しない。だが、この事件についての世間の反応は、あまりにもヒステリックであり、どこかがおかしい。そう思う私は、現代の大方の感覚とずれているのだろうか。

 世の中に野良犬は存在しないが、野良猫はあちこちにいる。飼い主のいない犬は存在しない(してはいけない)ので、他人の犬を傷つければ刑事罰が下る。だが、猫は違うのだ。

 子供の頃、田舎では春先にもなれば、猫の子はビチビチと生まれた。野良猫はもちろんだが、飼い猫でも無計画に生まれた。そんな時は、生まれた瞬間に穴を掘って埋めるのである。それが当然の行為であった。

 少しでも間を置けば、愛情が移るので、生まれてすぐに始末するのである。時期を逃して始末をしそこねると、もらい手を捜すのに大いに苦労をする。そうなってから初めて、あるいは山に捨てに行き、あるいは川に捨てに行くのだが、どちらの場合でも、すぐに生き埋めにした時よりも心ははるかに痛むのである。

 ちょっと田舎の人に訊いてごらんなさい。直ちに生き埋めにすることこそが「正当な対処法」だと知っていますから。

 件の高校教師は、

「他に始末の仕方がわからなかった」

 と言い、それをもって世間の非難が集中したが、その教師の言う「他に始末の仕方がわからなかった」は、たぶん「その方法を知っていた」「そういうものだと認識していた」という意味であろうと思う。

 テレビのコメンテイター達が、

「今までにも、していたかもしれませんね」

 と言ったのが、ちゃんちゃらおかしかった。

 していたに決まっているのだ。それが方法だからである。動物愛護協会が、

「私達に相談してくれさえすれば。」

 って冗談ではありませんよ。田舎にはそんなものはありません。

 また、都会の愛護協会だって、貰い手のない猫は、その後「始末」するではありませんか。少し大きくしてからのガス室の方が、生き埋めよりも良いという理由は何か。そんなものはありません。

「命の大切さ、尊さを教えなければならない教育の現場で。」

 って笑わせてはいけませんよ。

 教えなければならないのは、生まれたての野良猫の命の「尊さ」なんかではない。

「畜生」と「人間」との決定的な違いなのです。

 猫の命を教材にしてでも、人の命の尊さを教えなければならないのです。こんなふうに「生き埋め」にされる仔猫とは、決定的に違うのがお前達の命であると、教えなければならないのが教師なのです。

 動物を「飼う」ということは、どういうことなのか。それならば「飼わない」というのは、どういうことか。子供達は知らなければならない。

 学校側は、保護者に対して説明会を開くと言う。

 どんな説明をするつもりなのか。毅然として、この教師が決して命を軽んじるような男(女?)ではないことを説明して欲しい。謝ってなんかほしくないぞ。

 私に言わせれば、鯨を食べる日本人に対してヒステリックに攻撃しているどこかの国の団体と、どこが違うのだと言いたい。中国では猫を食べますよ。犬だって食べますよ。私は食べましたよ。おいしかったですよ。

 私は、人後に落ちぬ愛猫家である。


(三石由起子)

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コメント: 1
  • #1

    ウシバ (火曜日, 12 5月 2015 12:42)

    猫依存症の自分です。
    読みながら涙が出ました。
    文字は理解できます。
    かかれている内容もわかりました。
    もう40年ほど前の話ですが、実際私の父も生まれたての子猫を
    私のいない間にどうやら川に捨てにいった記憶があります。
    あの時代、すべてにおいてそうだったのかもしれません。
    今のように、殺菌滅菌強迫観念時代ではない生々しさ。
    だけどやっぱり心が受け付けてくれない自分がいます。
    餓鬼畜生が人の姿で蠢く時代より、あの生々しい時代の方が
    まっとうだったのかな…